カウンセリングの場で、職場の中でどうしても我慢できない方への対応を質問されます。
詳しい対応の仕方は、ご本人の長所短所・性格によって違います。
でも、共通することは「人間はみんな不完全」だ
という強い認識を持っていただくことなのですね。
欠点は、誰でも持っていますし、そこに目がいってしまうのは、
敬遠したくなる相手の場合ですと、尚の事です。
それでも、その短所を受け入れ、短所当たり前で接することが大切なのですよね。
それでも、その短所を受け入れ、短所当たり前で接することが大切なのですよね。
そうするとこんな事を仰られる方がいます。
「そういう欠点を持っているかわいそうな人と思えばいいんですよね?」
よく聞く言葉です。
「なるほど・・・かわいそうな人と思うのですね。
そうすることで、自分の気持ちが変わりますよね。
どのような感じに、変わりますかしらね?」
「こういう事でしか対応できないかわいそうな人だなと・・・・
同情するというか、憐れむというか、そういう気持ちに変わりますね。
どなたか布教活動されているのでしょうか?
ほとんど、同じようなお答えをされます。
私は、胸がキュッと締め付けられるような気持ちになってしまいます。
「憐れ」という言葉には、慈悲という意味もありますが、
こうした発言に使われる「憐れ」には、
そこはかとなく、見下しや貶めの情を感じてしまいます。
そう思うことで、自分の気持ちを楽にしているような・・・。
確かに楽になります。
私も、駅構内で自分からぶつかってきて、大きな声を上げる人には、
「何か辛いことでもあったのね。気持ちのやり場がないのね。かわいそうに・・・」と思うことはあります。
でも、それはすれ違いの一瞬のことであって、
対処法としてはアリだと思うのですね。
でも、いま現実に職場で関わりのある人で、
良好なコミニュケーションを取るべき人に、
貶めを伴う”憐れみ”や”客観視”は、どうかと思ってしまいます。
表情に出てしまいますよね。
そこには職場の仲間への愛が見えないような気がします。
そもそも、”嫌な部分”は、自分にもあるから”嫌”と思うそうです。
自分の中にもそういう部分があるのだな・・・という自覚があれば、
他人事のような客観視は、できなくなると思います。
相手も自分も同じように不完全な性格を持っているのですから、
性格や人間性を評価する立場には無いということなのですよね。
同等である立場に立ったときの「かわいそう」は、貶めではなく、
心からの心情であり、愛となるのではないでしょうか。
そして、チームリーダーや仲間であれば、
相手の短所を矯正しようとか、直してやろうではなく、
持っている長所をいかに発揮させて伸ばしてあげようかと
考えるほうに時間も力も注ぐことで、
結果的に”嫌な部分”は気にならなくなるものだと思います。
考えるほうに時間も力も注ぐことで、
結果的に”嫌な部分”は気にならなくなるものだと思います。
また、“嫌な部分”は”部分”であり、“人”ではないのですよね。
短所もあるけれど、素晴らしい長所もある人と認めることで、
人として誰もが持つ「愛されたい・認められたい・わかってもらいたい」
という気持ちが相手の中で満たされて、
相手からの反応も随分と変わってくると思います。
という気持ちが相手の中で満たされて、
相手からの反応も随分と変わってくると思います。
人は誰でも、長所半分・短所半分の不完全な存在。
愛されたい・認められたい・わかってもらいたいという気持ちをいつも抱えています。
それを満たしてあげる、満たしあうことで幸せな人間関係・幸せなチーム・幸せな会社・幸せな地域・社会・国・世界になりますように。
愛されたい・認められたい・わかってもらいたいという気持ちをいつも抱えています。
それを満たしてあげる、満たしあうことで幸せな人間関係・幸せなチーム・幸せな会社・幸せな地域・社会・国・世界になりますように。
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